fc2ブログ

記事一覧

元号法案についての参考人意見③

元号法案についての参考人意見③ 元号と天皇の在世年間は無関係

参議院内閣委員会  
昭和54年05月25日

○参考人(松岡英夫君) それでは、元号法制化につきまして、私の考えていることを申し上げて御参考に供したいと思います。
 年号といいますか、元号といいますか、これは歴史的に見ますと、御承知のとおり天皇の在世年間というものと全く関係のないものであったのであります。明治天皇の前の孝明天皇、この孝明天皇の在世時代、これは年号が七回変わっておりますが、この七回の年号の中には孝明という年号は全くありません。それから孝明天皇の前の仁孝天皇、これも年号が三回ほど変わっておりますけれども、もちろん仁孝という年号は全くないのであります。これ、全部の歴代の天皇の場合にそれが言えることなんですが、一々挙げるまでもないんですが、たとえば、皆さんよく御存じの後醍醐天皇、このときも年号が八回ほど変わっておりますが、後醍醐という年号は全くないんであります。このように、年号ができましたのが、七〇一年ですから、かれこれ千二百七十何年の長い歴史が日本にあるわけですけれども、この長い歴史の中で明治までは、年号あるいは元号というものは、天皇の在世というものと何の関係もないことであったのであります。ところが明治になりまして、年号のあるいは元号の性格が一変いたしました。これまた御承知のとおり、明治天皇制時代に入りまして、天皇の統治の期間というものに非常な意味を持たせまして、これを一世一元という形で表現したわけであります。年号、元号の性格をここでがらりと変えてしまったわけであります。
 明治憲法におきます天皇主権、天皇統治、天皇親政、天皇陸海軍統帥者、こういった天皇の性格の規定によって、この天皇の権威と年号というものを結びつけて一世一元ということにしたわけでありまして、長い年号、元号の歴史から見ると、非常に新しい制度であったわけであります。
 しかし戦後の、この現在の憲法の時代に入りまして国民主権ということになりますと、明治時代の天皇主権時代の一世一元制というのは、これはちょっと憲法になじまないということが言えると思うんであります。少しこれは無理ではないか。何も一世一元をすることによって天皇制の復活を考えているというようなことを私は申しませんけれども、しかし明治時代の天皇制時代の一世一元をこの国民主権の時代にそのまま適用するのは、これはなじまないのではないかということを申し上げたいのであります。
 それから、天皇は国の象徴であり、国民統合の象徴であるということから、その象徴ということに高い価値を置きまして、それほど高い地位にある人の在世を一世一元という形で表現してもいいじゃないかという言い方もあるんでありますが、しかしこれもまた繰り返しますように、国民主権のこの時代において、象徴だからといって一世一元と、それを法制化するということは、問題は別ではないかというように考えるわけであります。
 それからもう一つ、次によく言われますことは、元号はもう長い間国民生活になじんで、国民の一つの広範な一般的な社会的規範となっておる、習慣となっておる、生活になじんでおる、したがってこれを法制化して、その定着をそのままの形で延長をしても少しも差し支えないんじゃないかという意見がございます。この生活になじんでおることを定着させるということにつきましては、まあ法律で決めるという場合と、内閣告示で決めるという場合がありまして、法制化にはいろんな世論調査では、余り賛成者が多くないように見られますけれども、いずれにしろ、法制化、内閣告示両方を合わせますと、元号は存続した方がいいという数の比率の方が非常に高いということは、いろんな世論調査に出ておるのであります。しかしながら社会習慣というものは、いつでもこれは必要があれば変えてよろしいものであります。この習慣が昔からあるから、それを変えちゃいけないということはないのでありまして、一つの習慣を変えると、その変えたものがまた新しい習慣として定着していくということは、これはよくあることで、歴史的に非常に例の多いことであります。
 明治四年でしたか、日本で断髪令というものが出まして、日本人、男、男子はちょんまげをやっておったものを全部切って普通の長髪にしろということになったんですが、そのときは、この何百年かちょんまげになじんできた日本の男は、もう泣きの涙でちょんまげを切ったという話が伝わっておりますし、島津久光という薩摩の殿様などは一生涯死ぬまでちょんまげを乗っけておったというような話が伝わっております。しかしながら、一たんちょんまげを切ってしまいますと、それが、普通の長髪が新しい社会習慣となって定着して、ちょんまげなどをつけておる者はこれはもう時代おくれの旧弊人ということで軽べつされたということがあったわけであります。
 それから、髪のことを申しますと、中国では例の辮髪というのが昔あったんですが、満州族が中国を征服いたしますと、自分の国の習慣である辮髪を漢民族にも強制した。漢民族はこれまた泣きの涙で辮髪を蓄えたのであります。ところが、何百年かたって国民党による革命ができて辮髪を切れという指令が下りますと、辮髪を切るのがいやで民衆は隠れて逃げ回っていたというような事実があったのでありますが、ちょんまげ、辮髪、こういうことを見ましても、それを切るとかなんとかということになりますと、非常な抵抗がある。いま考えるとばかげたことだと思うくらい大きな抵抗が当時ある。しかし切ってみると、そこに新しい習慣が生まれて定着するというのが、これが歴史的な事実であります。
 アメリカには別に年号というものがありませんけれども、あの国はあれだけの強大国として政治的、経済的、文化的に隆々発展をしております。西ドイツにも元号などありませんけれども、国民は何の不自由も感ぜず、経済的、社会的、文化的に発展し、高い国民生活を楽しんでおります。
 こういうことを見ますと、元号があるとかないとかということは、国の政治、経済あるいは国民生活の豊かさ、そういったものとは何の関係もないものだということが私はわかるというように思うわけであります。
 それから、元号が生活になじんでおる、社会的習慣として定着しておるということは世論調査に出ておるじゃないかと、こういうことを言われますけれども、これは現在年号のもとで自分たちの生活が営まれておる、元号のない生活というものは経験していないわけです、現在の日本人は。そういう生活をしておる日本人に向かって世論調査をして元号存続賛成者が多い、そういう答えが出るのはこれはあたりまえの話であります。元号のない生活をしたことがないんですから判断のしようはないわけです、国民としては。どうしても現在のなじんでおる元号下の生活、それはいいだろうということになるのは、これはあたりまえであります。
 そこで、私は提案したいと思いますのは、元号のない生活を国民に十年か二十年実際に経験させたらどうか。その上で、元号のあるときの生活を経験し、元号のない生活を経験したという二つの経験を経た国民に対してさあどっちがいいか、元号があった方がいいかない方がいいか、こういう世論調査をするのが私は公平ではないかと思う。その元号のない生活を全然経験させないで、そうして元号賛成か反対かということを問うのは私は間違っておるんではないか、不公平じゃないかというように思うのであります。
 いずれにいたしましても、私は元号問題などというのは日本の国民にとって実にささいなことだと思う。余り問題にするに当たらないことではないかというように思うのであります。先ほど申しましたとおり、元号があってもなくとも、あるいは全くなくとも、世界の国々はそれぞれに繁栄をしておる、国民生活に何の不自由も感じていない、なぜ日本だけが元号を必要とするのかということを考えまして、元号というものはそれ自体に国民生活に余り大きな意味を持っておらぬと、端的に言えば非常にくだらない問題であるというように思うのであります。
 日本のこの国というのは一民族一言語、そして小さな島の中に何千年も一つの民族として生活してまいりましたいわば仲よし民族であるというように私は思うのであります。で、この仲よし民族の中に、元号というくだらない問題でなぜ対立や摩擦を持ち込むのか。もちろん仲よし民族でありましても、たとえば原子力発電をどうするか、これは大いに議論しなければならぬ。将来のエネルギーにかかわることですから、これは大いに議論し、あるいは摩擦がそこに生じてもやむを得ないかもしらぬ。しかしながら、元号などという国民生活にどうでもいいようなことで何でこんなにわれわれは対立し、摩擦を起こさなければならぬのか、これほどばかげたことはないと私は思うのであります。
 きょうも、私もそうですが、皆様方もこの元号法制化のために長い時間と貴重なエネルギーを費しておる、ほかのことでそのエネルギーを費したい、元号問題などというどうでもいい問題でわれわれ日本人がエネルギーを費すのは実に大きなロスであるというのが私の申し上げたい最後の結論であります。
 以上簡単でありますが、私の意見を申し上げます。


スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

ewkefc

Author:ewkefc
毒舌注意!
政経についての記事を中心にYahoo!掲示板やブログに投稿したものも載せて行きます

最新記事

最新コメント

最新コメント